前回予告しました、シカゴ・トリビューン紙 2010年8月6日の記事を全訳しました。
「佐々木禎子のツルと広島65周年記念」 シカゴ・トリビューン紙 2010年8月6日by クリフトン・トルーマン・ダニエル
ササキ・サダコ(佐々木禎子)は日本の広島の爆心地から半マイルのところに住んでいた。1945年8月6日、原子爆弾が街に投下された時、彼女は2歳だった。原爆投下は私の祖父ハリー・トルーマン大統領の指示によるものだった。10年後サダコは原爆による白血病と診断された。彼女の余命は一年弱だった。
サダコは友人から教えられた千羽の鶴を折ると病気が治るという話を信じ、病床でずっと折鶴を折り続けた。紙を見つけると、それが薬包紙であれ、ほかの人がもらった包み紙であれ、あらゆる紙を使って折鶴を折り続けた。ついにその数は千羽を超えた。
しかし、彼女の祈りは叶わなかった。1955年10月25日、彼女は亡くなった。12歳だった。
サダコの物語はずっと語り伝えられてきた。私は1990年、エレノア・コア著『サダコと千羽鶴』を我が子とともに読んだ。
広島、長崎の原爆記念について私にインタービューに来た日本人ジャーナリストにそのことを話した。数週間後、彼はふたたび電話をしてきた。サダコの兄雅弘を私に紹介するためだった。しかし、言葉の壁もあり、電話では雅弘とは思うように話ができなかった。が、いつか会いましょう、と約束をした。
そして今年の初めにその約束を果たす日がやってきた。2001年にテロリストに襲われ多くの人が命を奪われたニューヨークのワールド・トレード・センターの跡地で雅弘とその息子祐二に会った。彼らは、トレードセンターのような悲劇が再び起きないよう、サダコ・ストーリーを通して世界の平和を訴えるために、そこで命を落とした人々に捧げるライブをやっていたのだった。
雅弘はその日の朝の会議で、家族を想い、白血病に冒された自分の苦しみを一度も口にせず、ひたすら耐えながら鶴を折り続けた妹のことを話した。別れ際に私は雅弘と祐滋から平和とすべての人の命を願いつつ彼らが作った折鶴のレイを贈られた。そして近いうちに広島にぜひ来て欲しいと招待された。私自身も広島行きは望んでいた。その時にはぜひパールハーバーのアリゾナ記念館に寄ってサダコが最後に願いを込めて折った折鶴を寄贈してほしいと、祐滋は付け加えた。佐々木一家は、平和と癒しを願ってあちこちでライブをし、サダコの折鶴を寄贈してきている。実際、トリビュート・センターのガラスケースの中にも入っていた。
そしてサダコが病床で折った小さな小さな折鶴が5個入ったプラスチック・ケースを私の手のひらの上にのせた。折鶴は薬包紙で折られたものだった。治ることを願って12歳の女の子が折り続けた最後の折鶴だった。
その折鶴を持った同じ手で私は目に涙を浮かべた年老いたアメリカ退役軍人たちの手を握ってきた。彼らは自分たちの命を救ってくれたのは私の父の決断だったというのだ。
私の祖父は決断をし、実行した。そのような兵器の使用を命令したことに迷いはなかったのかと時々聞かれた彼は、もちろんあった、ないはずがないだろうと彼は言葉を返した。
年老いた軍人たちの涙とサダコの最後の折鶴と、両方とも心をゆさぶるものがある。
共に貴いものである。
私はこの国の軍に仕える女性や男性に感謝している。 私はいつの日か広島に行き、サダコの記念の像の前に立つ日がくることを願っている。祐滋がいつの日かパールハーバーのアリゾナ記念館に行き、サダコの折鶴を受け取ってもらえる日がくることを心から願っている。
私はなによりも希望を持っている。
posted by よも出版かまくら at 17:30|
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