2013年02月26日

プナホウ学園を訪ねて (3)

 ピーターソンひろみさんは1948年広島生まれ。直接原爆を受けてはいません。
しかし親族はじめまわりの被爆者たちを目のあたりにし、幼いながら原爆の恐ろしさを肌で感じて育ちます。
やがて白血病で亡くなる母や姉の死にも出会います。
 しかし、世界を見たいという向学心に燃えるひろみさんは京都外国語大学に進み英語を専攻します。
4年生の時、児童文学を学びにハワイ大学に夏季留学。そこで後に夫となるウェスリー・ピーターソン博士と出会います。    
 ハワイ大学の教授であり後に情報理論分野においてもっとも権威のあるクロード・E・シャノン賞を受賞する、コンピュータ分野の草分け的存在の学者です。
研究休暇で来日したピーターソン氏と再会したひろみさんは恋に落ち、やがて親の反対をおしきって結婚。
ハワイに渡ります。アメリカ人との結婚を祝えない親の気持ちは痛いほどわかっていました。
 1971年ハワイで生活を始めたひろみさんは二人の子どもに恵まれ、やがてプナホウ学園で日本語を教えることになります。
そこで自分が言葉を通して何を教えるのか、文字面だけでなく、ことばひとつひとつの奥にあるもの、一人一人の人間の心を大切にするコミュニケーションのツールとしての言語を教えたい。
教員室で机を並べる日本語の先生方と、教室で語らう生徒たちと話し合いを重ね、教科書作りに取り組みました。

 プナホウ学園のキャンパスの一角に教職員の建物があります。階段を登り、一歩入ると、まるで美術館に足を踏み入れたような、静謐な趣のある館内の2階部分にそれぞれの趣で飾られた先生方のコーナーが並んでいます。
ドアのない個室。心にドアはいらないと言っているような、おおらかなハワイの一面を見る思いがする教員室でした。(つづく)

プナホウファザード.jpg
posted by よも出版かまくら at 10:41| Comment(0) | 日記

2013年02月19日

プナホウ学園を訪ねて (2)

punahou教室.jpg  プナホウ高校は正確にはプナホウ学園高等部です。タイトルを訂正しました。
幼稚園から高校まで一貫教育の私立の学校です。ピーターソンひろみさんはこの学校で29年間日本語を教えています。ひろみさんと同僚そして生徒も協力して作った『Adventures in Japanese』はハワイではもちろんのことアメリカ本土でもベストセラーとなっている日本語教科書です。4巻で構成されるこの本の4巻目にヒロシマ、ナガサキのことが出てきます。
 ここで生徒たちに向って語られるのが「サダコ」のことです。
 ピーターソンひろみさん自身、広島原爆の被爆二世です。核兵器の無い世界への思いは人一倍強く、日本語教室を通してずっと生徒たちに平和へのメッセージを感謝、礼儀、そして美しい文化などとともに送り続けてきました。800人近くいる日本語教室の生徒の多くは日系です。5世までいます。しかし彼らにとって親の祖国でありながら日本語は外国語です。
 日本語教室は週5日間、毎日授業があります。この授業の中でひろみさんが一番大切にしているのは「心」です。
「ぺらぺらしゃべるのがコミュニケーショではありません。相手を大切に思っているか、相手を幸せにしてあげられるか、そう思いながら話すことの大切さ、言葉はそのためにある」とひろみさんはいいます。(つづく)
posted by よも出版かまくら at 22:48| Comment(0) | 日記

2013年02月08日

プナホウ高校を訪ねて(1)

 プナホウ職員室.JPGハワイの真冬、といっても朝夕にうすい上着をはおるぐらいの1月31日、
ホノルル市内にあるプナホウ高校に、日本語の先生ピーターソンひろみさんをお訪ねしました。
小社刊『想い出のサダコ』を通して紹介してくださった辻経三郎氏に案内され、教員室にうかがいました。
ひろみ先生のスペースに行くと、色鮮やかな千羽鶴が迎えてくれました。
しばらく話したあと、12時半からの授業を参観させていただくことになりました。

 23名の高2のクラスの生徒たちは、先生が「さあ始めましょう」と言うと一人の生徒の「起立。礼。」という号令でさっと立ち、
礼をし、「先生こんにちわ」と元気よく声を出し、「着席。」で授業が始まりました。
それぞれにやわらかい雰囲気を持った日系の生徒たちが多く、
ひろみ先生も楽しげにご自分で作られた日本語の教科書を開き、俳句の授業を始められました。
 芭蕉などの句を読み、季節はいつか、季語はなにかを答える授業でした。
ユーモラスな答えが飛び出し、レッスンは楽しく進んでいきます。(つづく)
posted by よも出版かまくら at 13:09| Comment(0) | 日記